「星夜」

 或いは明日のことを考えて眠れないのでは、そう予想して執務室を訪れたのはあながち外れていないようだった。
 日中、小刻みに降り続けた雨に濡れたテラスを覗くと、そこにはシードの求めた人物が、静かに眼下の見つめて佇んでいた。
「こちらでしたか」
 そう声を掛けると、相手はゆっくりとこちらを振り向き、シードの姿を見つけて微笑んだ。
 城内のあちこちで焚かれたかがり火が、闇を追い払う勢いで燃え盛っている。その緋色の光に照らされ、暗闇から姿が浮かび上がっている少年に向かって、猛将は一礼した。
「そろそろお休みになりませんと、明日にひびきます」
「うん……分かっているよ」
 シードの上司であるその少年……ジョウイ・アトレイドは、側に近づいてきたシードに、眼下の光景を指し示した。
「このざわめきが耳に入ってね、中々眠れそうにないんだ」
 明日、執り行われる式の最後の準備のために、城内では慌しく人々が動き回っている。
 ジョウイは明日、皇女ジルとの婚姻を控えていた。その喜ばしい儀式のために、皇都ルルノイエの王城の人々は浮き立っているのが、城の上階のここまで聞こえてきていた。
 シードは、傍らでテラスの下を見つめている少年の顔を見つめた。その整った顔には、皇女を娶る喜びは微塵も感じ取れない。むしろ苦いものが胸に淀んでいるような表情だった。
 その理由は、シードも承知していた。狂皇子ルカとの企みにより、明日の厳粛な儀式は禍々しい悲劇へと変貌するだろう。それは、ジョウイ自身が望んだことでもあった。
 彼の道行きに、大罪の刻印がなされる日となるはずだった。
 しかしシードはそのことには触れず、思いついて、腰に下げた長剣を叩いてみせた。
「眠れないのでしたら、気晴らしにいかがです?」
「ここでかい?」
 シードらしい申し出に、思わずくすりと笑って、ジョウイは雨に濡れたテラスのタイルを指して言った。
「これぐらい、大したことはありませんよ。体を動かせば、自然と疲れてよく眠れるかと思いますが」
 それに、一度は剣を交えてみたいと思っていたのだ。その華奢な外見とは裏腹に、この上司は相当な遣い手だった。
「真剣を使って?」
「当然です」
 至極当たり前といった風に首肯した部下を面白そうに見て、ジョウイは暫く考えた末、承諾した。
「まあ、いいだろう。確かに、体を動かさないと、どうにも眠れなさそうだし」
 そうこなくては。口には出さずとも、シードは途端に生き生きとした表情でそう語り、再びジョウイは微かに笑んだ。
 彼のように、迷いを払う潔さが自分にあれば、こうも物思いに囚われることはないだろうに。

 互いに剣を鞘から抜き、二人は距離をとって対峙した。
 テラスはそれほど広くはなく、二人の背後にはすぐ手摺が迫っている。城内を照らす炎があっても、互いの足元は暗く、下手をするとかすり傷を負う程度では済まない危険性があった。
 だが、剣を抜いた瞬間から、二人はそのことを頭から追い払っていた。一旦剣を抜いた以上、余計な雑念を持つと、その隙を突いて相手に打ち負かされてしまう。技量が互角なだけに、一瞬の弛みが勝敗の分かれ目となることを知っていたのである。
 先に仕掛けていったのはシードの方だった。大きく踏み込み、ジョウイの手元を狙って切っ先を繰り出す。
 しかし、その動きを読んでいたジョウイはシードの剣をはねのけると、逆に激しく攻め立てた。その容赦のない動きに、思わず防御の体勢を取ってしまい、シードは上司の無駄のない突きに、内心で舌を巻いた。
 が、やられっ放しでいる筈もなく、すぐにシードはジョウイの攻撃の手が乱れた時を逃さず、すぐに反撃に移っていった。
 そうやって交互に攻撃を仕掛けていたのだが、勝敗が決したのは、やはり一瞬の出来事からだった。
 身体が成長途中のジョウイよりも、戦場での経験も豊富で、既に完成した剣技を持つシードがじわじわと押し始めていた。
 ついにシードが強引な力技でジョウイの剣を叩き落とした。シードは息を軽く弾ませて、床に膝をついたジョウイに剣を向けた。
「決まりましたね」
 ジョウイは、目の前に立ちふさがるシードを、常とはまったく違う、きつい眼差しで見据えた。その目に睨みつけられ、シードは勝利を確信して口の端に笑みを浮かべた。
 上司から確実な降参の声を得ようと、シードは一歩足を踏み出しかけ、意外な出来事に目を見張った。雨に濡れたタイルに足を滑らせたのだ。
 その一瞬のよろめきを、ジョウイは見逃さなかった。素早い動きで取り落とした剣を拾い上げ、ジョウイは気合を込めてシードの剣を撥ね上げ、己の剣をシードの喉に向かって突き出した。
「そこまでです」
 ジョウイの剣がシードの皮膚を突き破る寸前に、その冷静な一声がジョウイの動きをぴたりと押し留めた。
 揃って息を乱したまま、二人は室内からかけられた声の主を見遣り、シードは忌々しげな声でその名を呟いた。
「……クルガン」
 暗闇から静かに歩み寄った知将は、落ち着いた仕草で剣の柄を握り締めた上司の手を掴み、ゆっくりと下ろさせた。
「明日に大切な儀式を控えておられる方が、無用な血を流す必要はありません」
 咎めるのではなく、諭す口調でクルガンはジョウイに告げた。その言葉を聞き、ジョウイは我に返ったように自分の剣を見つめ、眼を瞬いた。
「……ああ、そうだな。少し、頭に血が上っていたみたいだ」
「頭に血を上らせているのは、こちらの馬鹿者の方ですよ」
「なんだと!」
 むっとして前に出たシードを、クルガンはさらりと無視してジョウイに向き合った。
「とにかく、剣をお納めください」
「うん……」
 大人しく、ジョウイは己の剣を鞘に戻した。相手が剣を納めてしまっては、シードもそれに従うほかない。渋りながらも、シードもジョウイに倣った。
 不機嫌そうなシードと、黙り込んでしまったジョウイとを交互に見比べた後、クルガンはおもむろにシードの腕を取った。
「ちょっ……、何だよてめえ」
「お早く、お休みになってください、ジョウイ様」
 抗議の声を上げるシードの腕を優しく捻りあげてやってから、クルガンはジョウイに声を掛けた。
「我らも、明日はお側に控えております。全ての事柄は、我らの望みでもあるのです。……どうか、何も案じることなく、よくお眠りください」
 淡々と告げられた言葉をゆっくりとかみしめるように、ジョウイは黙然とクルガンの台詞に聞き入っていたが、やがて小さく頷いた。
「それと、寝室のほうに酒を届けさせてあります。寝付けないようでしたら、お役に立ててください」
 それでは、と頭を下げ、罵りの言葉を口走るシードを引き摺ったまま、クルガンは部屋から退出しようとした。
 その背中に、ジョウイはそっと声をかけた。
「……すまない。二人とも、……ありがとう」
 その言葉にクルガンは再び頭を下げ、二人は執務室から退出していった。
 一人残されたジョウイは、自分の両手に目を落とし、一つ息をついた。
 それから、天を見上げた。
 雨雲が切れ、今はあちらこちらから星空が覗いている。
「明日は、晴れるかな」
 その独り言はかぼそく宙に溶けて消えた。ジョウイは軽く頭を振ると、明日を迎える眠りに就くために、歩き出した。


 シードは、クルガンに腕を取られたまま、クルガンの私室に連行されてしまった。
 他に人の姿がない暗い部屋に入り、扉を閉めてから、ようやく開放される。
 掴まれっ放しで痛んだ腕を擦りながら、シードは憤然とクルガンを睨みつけた。
「どういうつもりだ、てめえ」
「痴れ者が」
 冷ややかに、唯一言言い放ったクルガンは、酒棚に向かって歩み寄り、グラスを二つ取った後、酒瓶を物色している。
 その様子を思い切り睨みつけた後、シードは勝手に机の前の椅子に腰を下ろした。
「貴様の事だから、軍団長殿のところに余計な節介でも焼きに行っていると思い、行って見れば案の定だ」
「いつから覗いていやがった」
「剣を抜いたあたりからだ」
 選び出した瓶を手に取り、シードの前に戻ってきたクルガンは、冷笑をシードに投げかけた。
「あと少しで軍団長殿に突き殺されるところだったのに、邪魔をするべきではなかったかもしれんな」
「ふん、ほざいていろ」
 ぷいと横を向いたシードの顎にいきなり手をかけ、動けないよう固定してから、クルガンは同僚の前髪をかきあげた。
「……随分と派手にやられたものだな」
 赤茶の髪に紛れて傍目には分かりづらいが、こうして髪を上げると、こめかみに斜めに切り傷が走り、そこから血が流れ出ているのがはっきりと目立った。
 先刻、ジョウイと剣を交えている時に、切っ先がかすめて出来た傷だった。
「これぐらい、大した傷じゃねえよ」
「止血ぐらいはしておかないと、枕が血に染まるぞ」
 そう指摘したクルガンの言葉にも、シードは頑なに頷こうとはしなかった。
「いちいちこれぐらいで藪医者に見せていられるか」
 眉をひそめて、クルガンは吐息した。
「まったく……」
 一旦手を離し、クルガンは酒瓶の栓を抜くと、その透明な液体を直に口に含んだ。再びこめかみの傷をさらし、そこに口に含んだ酒を吹き付ける。
「……っ」
 酒が傷口に沁みたらしく、シードは唇を噛み締めて顔をしかめたが、クルガンは構うことなく再び同じ事を繰り返した。
 こんなときのために常備してある清潔な布を机の引き出しから取り出し、シードの傷口にあてる。
「出血が収まるまで、自分で抑えていろ」
 そっけなく言い、傷口から手を離したクルガンは、今度は酒を二つの杯に注ぎいれた。一つをシードに手渡し、もう一つは自分で飲み干す。
 酒が沁みて痛む傷口を用心深く抑えながら、シードは杯を口に持っていきかけ、そこで思い出し笑いを漏らした。
「何だ」
「いや……。てめえもあそこにいたのなら、見ただろう。さっきの軍団長をさ」
「ああ……」
 シードはにやりと笑い、酒を一気に空けた。
「俺に向かって剣を突き出してきたときの、あの目。てめえが声を掛けなきゃ、間違いなく俺は喉を裂かれて殺されてただろうぜ」
 自分が死の瀬戸際にいたというのに、シードは楽しげに酒を杯に注いでいる。
「俺たちの目は確かだったというわけだ。あの獣じみた殺気、まるでルカ様と同じだ」
「……」
「あれぐらいの本気が出せないようじゃ、話にならねえからな」
 シードによって己の杯に酒が満たされてゆく。それを薄く目を細めて見つめながら、クルガンは同僚の言葉に返答しようとはしなかった。
 一度剣を打ち落とされても、一瞬の勝機を逃さずに相手に切りかかる、勝利への貪欲さ。それを見込んで、クルガンとシードはジョウイに忠誠を誓ったのだ。その覇気があれば、狂皇子を斃し、ハイランドを導くことができるだろう。
 だが、彼自身には、まだ幾分かの迷いが残っている。血にまみれた野望の階段を目の前にして、今なら引き返すことが出来ることを知り、惑わずにはいられないのだろう。
 沈思しているクルガンの顔を、シードは身体を乗り出して覗き込んだ。
「まーた、何をジジイらしく考え込んでるんだよ」
「猿には考えも及ばないことだ」
「はっ。馬鹿の考えなんとかというが、てめえのはどうせ、その類のことだろ」
 何杯目かの杯を一気に空にすると、シードは椅子から立ち上がって、クルガンの前に立った。そして、再び剣を抜く。
 眉をひそめてその様子を見守っているクルガンの頬に、銀色に煌めく刃を押し当て、シードは剣呑な笑いを閃かせた。
「考えるまでもないぜ。軍団長は高みを目指す。そして俺たちの役目は、いずれ誕生する王のために、この剣を思う存分振るうということだけよ。武人の道とは、そういうことだ」
 頬に当てられていた刃がゆっくりと左胸の上に降りてゆく。クルガンはシードと視線を絡ませ、その目をじっと見つめた。
「我々の行く先は、常に大罪が付きまとうことになる。それでも、迷いはないというのか」
 シードは鼻で笑い、軽く剣の先でクルガンの胸を突いた。
「軍団長に誓いを立てた時に、そんなモンはなくなっている筈だぜ。それとも、今さら迷っているというのか、てめえは」
 胸に突き当てられた切っ先に、より力が込められる。
「てめえが俺の前に立ちふさがるというのなら、俺が今、この場で殺してやってもいいんだぜ」
 そう言いながら、シードは薄く笑っていた。無表情にシードを見据えていたクルガンも、そこで冷静な笑みを口元に浮かべた。
「……誰がそんなことを言った」
 シードは声を立てて笑い、剣をすいと下げて鞘に戻した。そして、クルガンの手にあったグラスを奪い取って、中に入っていた酒を口の中に流し込む。クルガンはいささか呆れたようにシードを見、自分のグラスをシードから奪い返した。
「飲み過ぎだ」
「いいだろ、別に。前祝いだ、明日のな」
 それに、とシードは付け加えた。
「てめえが死ぬか、俺が先か。いずれにしろ、酒は飲めるうちに飲んでおくべきなんだよ」
「上手い言い逃れだな」
 クルガンは微かに笑い、あと一杯だけと念を押してから、シードにも酒を注いでやった。
「明日は晴れそうだな」
「ああ。雨も上がって、星もよく見えているはずだ」
 全ての営みを黙して見つめる天の数多の星と同じだけ、その下で血で血を洗う争いを重ねる者たちがいる。
 とりとめなく浮かんだ思いに気付いて、クルガンは苦笑を漏らした。
 早くも、酔いが回ったのかもしれない。そう思いながらも、明日を迎えるための眠りを得るために、クルガンは戦友と杯を交え、再び美酒を喉に流し込んでいた。



・・・THE END・・・



 
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